猫カフェとパレート均衡の夢

昨日、友達と初めて猫カフェに行きました。

猫たちが戯れたり、寝たりしている様子を眺めながら、ドリンクバー飲み放題で1時間1200円。個人的には得られる精神的幸福の大きさを考えたら安いものだと思います。

しかし、やっぱり猫たちを目の前にしたら、猫たちにかまってほしくなるものです。特に、膝の上に猫が乗ってきた時のあのなんとも言えない体重がたまりません。そのため、我々客たちは猫じゃらしなでなで攻撃を使って猫にご奉仕し、彼らの気を惹こうと必死になります。

自分は猫様へのご奉仕があまり上手ではないらしく、猫を撫で始めてもすぐに逃げられてしまいます。内心悔しがりながらその猫を目で追うと、その先には一人のおばさんの姿が。

その姿を見て僕は愕然としました。

彼女はなんと3匹もの猫を同時に侍らせていたのです。おばさんは猫じゃらしを上手に扱い猫の本能を引き出すだけでなく、持ち手の部分をソファーに擦り付け、ザリザリという特徴的な音を鳴らすことで、猫の気をうまく引きつけていたのです。

おばさんは幸せそうでした。その陰で僕はほぞを噛んでいました

 

 

さて、ここで気がついたのですが、猫たちの数は一定です。なので、猫をだれかがたくさん集めて幸せになっているとき、ほかのお客さんは猫を奪われて不幸せになっているのです。おばさん許すまじ。

この様子はFX取引に類似しています。いくらうまくFX取引をしたとしても、世界にあるお金(価値)の総量は増えていないので、彼らは儲けているように見えて実際にはお互いに食い合っているに過ぎません。この状況は、経済学の世界ではよくゼロサム(皆の利益の総和は常にゼロである)と呼ばれます。

なんということでしょう。そう、猫カフェはのんびり猫と戯れる場所などではなかったのです。あれは本質的には数多の破産者を生み出したFXと変わりません。そこでは水面下で訪問者同士による熾烈なリソースの喰らい合いゼロサム・ゲームが繰り広げられていたのです。

 

我々としては少しでも多くの猫を集め幸福度を最大化したいところです。店側もそんな客の気持ちをわかっているのでしょう、追加料金で猫にあげる餌を買える仕組みになっていました。

小さいエサ袋が100円。猫用のアイスor大きいエサの袋が500円。いいお値段しますが、その分効果は抜群で、だれかがエサ袋を開けたことを猫たちは目ざとく察知してそちらの方へと行ってしまいます。

 

そして、このエサこそが曲者なのです。察しのいい読者の方は気づかれたかもしれませんが、このエサにより猫カフェマイナスサムへと転じます。お客さんがエサを購入した分だけ追加料金を支払わされ、損失が生まれているからです。

ここで注意して欲しいのは、餌をお客さんが買うと、猫たちを集めることができますが、やっぱり猫の総数は変わらないという点です。そう、これも結局のところは猫の奪い合いにすぎません。そこに課金が生まれただけです。

状況を整理しましょう。結局のところ、全員の利益の合計値を最大化するには誰も餌を買うべきではないのです。餌を買うと、自分は幸せになることができますが、それは周りの人の幸せの犠牲の上に成り立っており、かつ餌の値段分だけ自分も損しているからです。極端な例として、皆が皆餌を買ったとすると、猫は平等に分配され、結局餌の金額だけ我々は損することになります。この状況を表す言葉はすでに存在し、囚人のジレンマと呼ばれます。他の人を裏切ることによって自分だけ多大な利益を得られるという状況を指します。

この時、「誰も餌を買わないことで利益の合計値が最大化された状況」をパレート均衡、「みんなが餌を買うことで利益が小さくなってしまった状況」をナッシュ均衡と呼びます。(ちなみにこの状況は社会で非常によく起こるので、いかに人々をパレート効率的に行動させるかは政策を作るときの目標の一つです)

 

 

そのことに気づいた聡明な僕は、餌を買わないという英断をしました。

皆もいつかこのことに気がついてくれることを願って。

我々は理性の力でパレート均衡にたどり着けるはずだということを夢見て。

 

しかし。

 

 

 

僕は大きな勘違いをしていたのです。それも2つも。

 

1つ目は、囚人のジレンマの正解です。Wikipediaにあるように、有限回で終了する囚人のジレンマは、合理的に考えると裏切るのが正解なのです。

こう考えます:我々はいつか猫カフェを必ず去りますが、去る直前には餌を買う方がいいでしょう。たとえそれで周りの人の恨みを買ったとしても、もう帰るので気にすることはありません。さて、ではそのもう少し前の段階でも、餌を買う方がいいことになります。どうせ最後は餌を買うことが決定しているので、裏切りを少し早く始めても同じことです。……この論法を繰り返すと、結局最初から餌を買いまくるのが正解だったということになります。

 

 

2つ目は、もっと重大なのですが、猫を喜ばせることで追加的に得られる利益を考えていなかったことです。餌を買う人は単に自分が猫を集めて幸せになりたいから買っているのではありません。猫たちが美味しそうに餌を食べ、幸せそうにしている様子を見ること、それもまた彼らを幸せにしていたのです。そう、彼らは猫の幸せを自分の利益の勘定に入れることにより、大きな喜びを得ていたのです。すなわち、元から猫カフェ囚人のジレンマなどではなく、プラスサムゲームだったのです。猫の幸せのことを全く考えていなかった冷酷な自分を僕は深く恥じました。

 

余談

 

猫からすれば、我々が結託して餌を買わないという状況になったらたまったものではありません。彼らにとって、客のくれる餌は大切なおやつなのです。つまり、我々が結託できない状況下で自分の利益(ねこあつめ)を追求しなければならないというこの状況は、猫にとっては嬉しい状況です。

もしこれがおやつなどではなく、生活必需品だったらどうなるでしょう。客が結託して自らの利益を守りにかかった時、猫たちの生活は瞬時に脅かされてしまいます。これは、独占禁止法などにあるカルテルの禁止に類似していると言えます。健全な競争を企業間に促すことで、利益ばかりを追求するのではなく価格・品質などの向上を促すことができるのです。